オリンパスの株主が会社を変えようとしない理由

オリンパスの株主は愚かなのか単なる外国人嫌いなのか、それともその両方なのか、同社の最高経営責任者(CEO)から内部告発者に転じたマイケル・ウッドフォード氏にはっきりと「ノー」を突き付けたことで、こうした疑問が出てくるのは極めてもっともなことだと、ブルームバーグ・ニュースのコラムニスト、ウィリアム・ペセック氏は語っているが、本当にそのとおりである。

英国人のウッドフォード氏は昨年10月、企業買収での異常な会計処理を疑問視したことでCEOを解任されたが、今やこの問題は巨額の損失隠しをめぐる捜査の焦点となっている。ヒーローとして称えられてもいい同氏が、日本文化に無理解というあいまいな理由でCEOを解任された。
メディアを通じ自身の主張を訴えたウッドフォード氏は、オリンパスのCEOに復帰し、同社の信頼性の回復に貢献しようと手を上げていた。だが、今春開催予定の臨時株主総会での委任状争奪戦を断念すると表明。表立ってはいないが、大株主である国内機関投資家の支援を得られなかったためだとされている。

一体、オリンパスの株主は何を考えてこのような判断をしたのだろうか。CEOとしてオリンパスが生き残るために必要な透明性を示したウッドフォード氏ではなく、「日本株式会社」において最も恥ずべきスキャンダルの一つに関与した会社側につくというのだ。何とも奇妙なことと海外には映ることだろう。
それを説明するのは、恥そのものかもしれない。終戦間もない1946年、米国の文化人類学者のルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で、「恥の文化」を分析し日本人論を展開した。政治の世界でも企業社会でも、失敗は恥につながり、日本人がどんな犠牲を払ってでも避けたいことだという。

日本に起業家精神が育たないこともこれで説明できる。日本の大企業はさまざまな技術革新を成し遂げ、長期にわたり特許技術における世界のリーダーとしての自負を感じていながらも、米アップル創業者のスティーブ・ジョブズ氏のように数人の若者がガレージにノートパソコンを持ち込みながら、世界を変えるような企業を起こすという夢や野望を抱く人はまれである。失敗への恐れが強いのだ。
オリンパス問題の核心は、強欲さでも損失を隠した旧経営陣の取り巻きを守ることでもない。恥をかくことへの恐れだと考えると、説明がつく。オリンパスの旧経営陣は財テクの失敗を白状するよりも、刑務所に入ったり92年の歴史を持つ同社をぶち壊すリスクを冒すことを選ぶのだ。幹部が安全基準違反を数年にわたり隠していた東京電力福島第一原子力発電所で、放射能漏れの危機が起きたことを考えてみても、納得がいく。