増資空売りインサイダー取引包囲網(後編)

(前編から続く)

金融庁が新たに証券界に提案してきたのは、発行企業に対する「ブック」の開示だ。
ブックとは何か。これは引受業界の専門用語で、新株を投資家に配分する際に具体的にどの投資家からどれくらいの株の購入申し込みを受けたのかという投資家の実際の需要リストのことを指す。
かつてはロンドンの証券街シティーでは、新株を申し込んだ投資家の名前を主幹事の証券会社が分厚い帳簿(ブック)に1つ1つ記録していたのがこの言葉の語源だという。ここから派生して、投資家の新株需要調査のことを英語で「ブックビルディング」、引き受け主幹事の証券会社のことを「ブックランナー」と呼ぶ。
引き受け主幹事を務める証券会社にとってブックとは神聖な存在で、引き受けシンジケート団を構成する他の証券会社はおろか、当の新株の発行企業にも決して中身を見せないものだ。
自社が発行する新株の配分先を当の発行企業が見ることができないというのはちょっとヘンな気がするが、これには日本独自の歴史的な経緯も影響している。

バブル期までは新株は「買えば絶対にもうかる金融商品」だったため、メーンバンクなど特定の親密企業や政治家などの個人に発行企業からの指示で証券会社が優先的に新株を割り当てる時代があった。それがリクルート事件などを機に世間からの批判を浴び、発行企業の介入を防ぐために今度は「ブック」を見せないことが過去20年以上にわたって日本の資本市場の実務慣行として続いてきた。
これを今回、金融庁は「ブックを発行企業にもちゃんと開示するようにしろ」というのだ。なぜだろうか。ブックを発行企業にもきちんと開示すれば、増資情報を利用した不正な空売りでもうけるヘッジファンドに引き受け主幹事の証券会社は新株を配分しづらくなるからだ。
ある外資系証券の引き受け担当者は「例えばシンガポールの×××ファンドなど、発行企業が知れば激怒するような投資家に平気で大量の新株を割り当てる事例を何度もみてきた」と明かす。こういう話を漏れ聞くにつれ、「ブック」の開示は野放しだった日本の増資インサイダー問題に対する大きな抑止力になるという気がしてくる。

すでに金融庁は昨年12月に新しい空売り規制を施行し、増資発表後に当該銘柄を空売りした投資家には新株の割り当てを禁止する米証券取引委員会(SEC)の規制「レギュレーションM」に倣った日本版レギュレーションMを導入済みだ。今回日証協が金融庁の強い要請で議論を開始した「ブックの開示」と合わせ、ヘッジファンドなど「増資空売り筋」への包囲網は確実に狭まってきているといえそうだ。
そして、肝心の証券取引等監視委員会による増資インサイダーという犯罪行為を犯した投資家に対する調査状況はいったいどうなっているのだろうか。昨年春から相当な規模の人数を投じて証券監視委は調査を続けているもようで、市場関係者からは「かなり厳しい調査をしているようだ」という話も漏れ伝わってくる。増資インサイダーの最大の対策はもちろん犯罪者の摘発であり、それもそろそろ時間の問題なのかもしれない。
市場参加者の自由な取引を阻害する規制は極力少ないことに越したことはないが、発行企業に対するブックの開示は英米市場では証券会社に義務付けられた海外では一般的なルール。金融庁が日証協に対してブック開示を強く求めた背景には、日本で当たり前のように横行する増資インサイダー取引に業を煮やした海外の大手機関投資家が、日本市場での導入を強く働き掛けたという経緯がある。今年増加が見込まれる大型増資案件でまた同じようなことが起きれば、やっと復活の芽が見え始めた日本市場にとって致命傷になるのだから。